織田信長は大の相撲ファン?土俵を考案した説の真相とは!?
相撲の歴史は古く、古事記や日本書紀からもその源流を確認する事ができます。また、鎌倉時代になると相撲は武術として、武士の間で盛んに行われるようになりました。
そして戦国時代も、多くの武将が相撲を愛好しています。中でも織田信長の相撲好きは有名で、安土城で相撲大会を主催するほど。土俵の考案者という説も含め、信長と相撲の関係についてご紹介します。
織田信長は大の相撲ファン!?
戦国時代に入ると、各大名は相撲を武術として推奨するようになりました。
刀を持って1対1で戦う際、相撲の技を身に付けているか否かで勝敗が決まる事もあったそうです。
中でも織田信長は、大変な相撲好きとして知られていました。信長の事を記した「信長公記」という史料にには、何度も相撲大会の記述が出てくるほどです。
織田信長が開催した相撲大会の記述は多く、相撲大会のルールや行司の制定など、相撲が現在の形になる原型を作ったのが織田信長だとも言われるほど愛好していたようです。
では、織田信長がどんな相撲大会を行っていたのかを次にご紹介します。
信長が主催した相撲大会とは?
織田信長が開催した相撲大会には近江国中の力士が集められたと言われています。
1570年に近江国の常楽寺で開催された大会で勝ち残った、鯰江又一郎と青地与右衛門という人物は優秀な力士として有名で、褒美に太刀を賜ったほか、信長の家臣として召し抱えられたという話が残っています。
また、1578年に開催された相撲大会では、力士だけではなく力自慢の武将自身が力士として参加した事でも知られています。その中には蒲生氏郷や堀秀政など、後に大大名になった武将の名前も見られます。また、この大会では1500人もの力士が集ったという記録も残っています。
信長の相撲大会で優秀であった力士を家臣に召し抱えられ、太刀や土地を与えていたことから、立身出世のチャンスの場でもあったのかもしれません。彼らの中には侍ではない者や素性の定かではない者も少なからず居たとされており、もし本能寺の変が起こらなければ、第二、第三の秀吉のように大出世する者も現れたかもしれませんね。
こうして召し抱えられた力士の中には、最期まで信長に従い殉じた者もいたという話もあるので、信長と家臣とを繋ぐ大切なコミュニケーションの一つになっていたのではないでしょうか。
土俵を考案したのは信長だった!?
江戸時代中期に当時の行司が記した書物に、織田信長が土俵を考案したという話があります。
しかし、実際に土俵の歴史を見ていくと、織田信長が土俵を考案したという説は信憑性が低い説です。
戦国時代以前の相撲でも、土俵の元となるような「人方屋」と言われる輪の中で相撲が取られた記録が残っています。
また、現在の土俵の元になった四本の柱と俵を使った土俵は大相撲興行が盛んに行われるようになった寛文年間(1661~1673年)に成立したと考えられており、これは織田信長が生きた時代より後の時代にあたります。
しかし、織田信長が相撲の勝敗を明確にするために努力していたようで、織田信長が相撲史に尽力したということが土俵考案の説を根付かせた理由の一つかもしれません。
この記事のまとめ
現在ではスポーツとして行われる相撲ですが、戦国時代では武術として推奨されていたということを知った時は驚きでした。
中でも、織田信長は相撲を家臣との間で上手く使い士気を高めていた事で知られています。信長と相撲のエピソードは、日本人としてこの相撲の歴史の奥深さを垣間見られる瞬間だと思います。
また、「信長は土俵を考案した」という説からは、それ程までに信長が相撲好きだったのか!という事が分かるなと個人的には思えてきます。
ちなみに、以下の記事では織田信長の性格について解説しています。長所と短所がハッキリしている信長の性格ですが、興味があれば以下の記事をご覧になってみて下さい。
※参照:織田信長の性格の長所と短所とは?数々のエピソードを解説!